豊富のなかの貧困

今から約90年前のアメリカ、未曽有の大恐慌のただなかで、異様な現実が立ち現れた。豊富のなかの貧困である。取れすぎる作物、あるいは売れない肉が廃棄される一方、食料を買うお金がないために何百万もの人が飢えに苦しんだのである。

たいていの大恐慌の解説書には、このことが記されているが、ここでは、「大恐慌 1929年の記録」(D.A.シャノン編 玉野井芳郎、清水知久訳、中公新書 1963年)の「豊富のなかの貧困」(p.62 – 65)から紹介したい。

この「豊富のなかの貧困」は、オクラホマ・シティのオスカー・アメリンガー(1870 – 1943、社会主義者で“The American Guardian”という名称の新聞を創刊した。)が1932年にアメリカ議会、下院の労働委員会小委員会で公述したもので、以下は、そこからの引用である。

「シアトルを出発する晩に私が目にしたのは、市の中央市場のゴミタメに、婦人がたくさんむらがって、食物のきれはしをあさっている光景でした。モンタナ州の人びとの話では、何千ブッシェルもの小麦が刈りとられずに畑に残っているということです。値段が安くて、刈取り賃もでないからだそうです。オレゴン州では、やはり何千ブッシェルものリンゴがリンゴ園で腐りっぱなしに放りだしてありました。いまでもぜんぜんきずのないリンゴだけは売れますが、200個入一箱が40セントから50セント(大雑把に今の貨幣価値に換算すると、約8ドル、1,200円くらい)という値段です。こんな状態ですのに、両親が貧乏なために、この冬に一個のリンゴもたべられないような子供が何百万もいるのです。」

「シカゴのレストランで、私はある男に話しかけました。その男は羊を飼っていて、私に話してくれたところでは、この秋に殺した羊は3000頭で、そのまま谷に捨ててしまったそうです。羊を市場にだすには1ドル10セントの運賃がかかるが、売値はそれ以下、だからすてるより仕方がないということでした。羊を飼い続ける力はない、といって羊が飢えるのを放ってもおけない。だから殺して谷にすてた — 彼は自分の経験をこう話していました。

西部や南西部の道路には、飢えた人びとがぞろぞろと歩いていて、自分を運んでくれる車をさがしています。そして野宿する人びとがたいている火のあかりが、どんな鉄道沿いにも必ず目に入ります。自動車の走るべき道路を男、女、そして子供たちが歩いていきます。小麦や綿花市場の最近の不況のために、すっからかんになった借地農の一家がほとんどでした。」

アメリカの農業は、1914‐1918年の第1次世界大戦で戦場となったヨーロッパ向けの輸出が大幅に増加し、好景気に沸いた。農家はこぞって借金をして農地の購入をはじめとする投資を行い、生産拡大に走ったのだが、1920年代からヨーロッパの復興にともない、ヨーロッパ向けの輸出需要がしぼみはじめ、大恐慌の始まる1929年以前の時点で、すでに過剰生産による価格の低落、そして借金の返済に苦しむようになっていた。そこに、大恐慌により職を失い、食べ物すら買うお金がないという人々が続出し、異様としか言いようのない現実が現れるようになったのである。

それにしても、こういう事態はどうしようもなかったのであろうか?

単純素朴に考えて、余っているものを必要なところに回せばよいのである。なぜそれができなかったのであろうか?

これはその当時のアメリカの特殊な事情なのであろうか?

今はもうそういうことは起きないと言えるのであろうか?

次回の更新では、この現実に対して、恐慌発生時点の大統領であったフーバーとその後の1933年に大統領になったルーズベルトの取った政策をもみていきながら、上記の問題点について考えていきたい。

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