神谷美恵子の「生きがいについて」から

今回は、神谷美恵子の「生きがいについて」の一節の引用からはじめたい。経済の不調和な現実を見ていこうとするとき、ここで書かれていることが極めて重要になってくるからである。

「生きがいについて」は、今から50年以上前に書かれ、今なお読み継がれているロングセラーで、読まれた方も少なくないと思う。ごく大雑把にその内容を要約すれば、病その他の事由により生きがいを失った人々が自殺をも考えるほどの苦悩の時を経て、新たな生きがいを見出すまでが論じられている。引用は、そのなかほどの章「7 新しい生きがいを求めて」の、「価値体系の変革」という節からである。ハンセン病患者の特に男性を悩ます劣等感について、「自分たちは穀つぶしである」というひけ目が目立つと指摘したうえで、次のように記す。

「…生活のために働いていなければ人間としての値打がないということならば、世のなかには、ほかにも同列のひとがたくさんいるはずであるが、彼らはみな価値がないことになるのであろうか。

 こういうものの考えかたの根底には、人間の価値は経済力によってきまる、という価値判断がある。病気のため、その他の事情のため、働くことができなくなったひとは、自分も今まで無意識のうちに採用していたかも知れない上のような価値基準に対して再検討と変革を加えなくては、劣等感を克服することはできないであろう。」(神谷美恵子コレクション 「生きがいについて」みすず書房 2004年 166頁)

神谷はこの後、知的障害の娘を授かったパール・バックが、周りの人間からの好奇の目や暗黙の非難に苦しめられたことをあげ、以下のように記す。

「そこで彼らは、それまでそこで埋没して生きて来た社会や集団との間に距離をおき、そこで行われている価値基準をあらためて検討してみることになる。すると、多くの場合、それはずいぶんいいかげんなものだったことを発見するであろう。

…こういうことで、社会からはじきだされ、疎外されたひとの眼はするどくその社会でのものの判断のしかたを批判しはじめる。それは破壊的な過程ではあるが、古い価値基準から解放されるため、それをのりこえるためには、ぜひ通らなければならない過程である。」(同、167-168頁)

ここで書かれているように、一歩現実から距離を置いて、現実の経済を、そしてそこで行わている価値判断、価値基準について、いわば外側からの眼で見ていくことは極めて重要なのではないだろうか。今まで当たり前と思って全く疑問視しなかったことが、異様な現実として浮かび上がってくることもあり得るであろう。

ここでの作業はあくまで社会からはじき出された人間が行う、個人的な作業といえよう。だがここで想像してみよう。このような作業をする人が増えていけば、経済はどうなるであろうか。

経済の営みの根底にあるのは、一人一人の人間の思いである。私たち一人ひとりがなにを思い、どのように行動するか、それが経済の根底を創り上げているのである。

もし、神谷が書いているような作業をする人が増えていけば、当然その根底部分が変わっていくわけで、経済全体も大きく変貌するのではないだろうか。

古い価値基準からすっかり解放された人々が見出したよろこびについて、神谷は「生きがいについて」の結論部にあたる「10 心の世界の変革」において以下のように記す。

「死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじき出されたひとにも、平等に開かれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび。ものの本質を探り、考え、学び、理解するよろこび。自然界の、かぎりなくゆたかな形や色や音をこまかく味わいとるよろこび。みずからの生命をそそぎ出して新しい形やイメージをつくり出すよろこび。―こうしたものこそすべてのひとにひらかれている、まじり気のないよろこびで、たとえ盲であっても、肢体不自由であっても少なくともそのどれかは決してうばわれぬものであり、人間としてもっとも大切にするに足るものではなかったか。」(上記同、267-268頁)

誰もがこのような喜びで生きる社会、そこでは当然のことながら、経済のありようも根本から変貌を遂げているであろう。それは、「一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび」が今の経済の価値観と真っ向から対立するものであることからも、明らかである。

このような社会は実現できるのである。その実現に向けての一助となればと願いながら、ブログをつづっていきたいと思う。

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